A Story To Tell vol.2 "DMX"

RIP DMX 〜吠えるようなラップの奥にあった痛みと祈り
by. 池城美菜子
DMXが亡くなった、と聞いてショックを受ける人たちを思い浮かべる。私みたいに、彼の全盛期、90年代が終わり、新世紀に入った時期にヒップホップを熱心に聴いていた人。DJとして各年代のビッグ・ヒットを後から丁寧に追いかけた人。古めのヒップホップが好きで、掘っているうちに辿りついた人。その辺りだろうか。このコラムでは、少し濃いめの情報を記そう。
1 DMXの名前の由来
DMXがダークマン・X(Dark Man X)が略である、というのは有名な話だ。実は、彼が矯正施設で出会ったドラムマシーン、オーバーハイムDMXの名前でもある。鍛え抜いた体躯、吠えるようなラップで猛々しいイメージが強い人だが、その幼少〜少年期は過酷だ。1970年12月8日にアール・シモンズとして生を受けた彼は、19才だったお母さんの二人目の子どもであり、ネグレクトとも虐待とも取れる環境で育っている。DMXのシンボルは忠誠を意味する犬であり、14才の時にストリートを彷徨っている時に野良犬と一緒に過ごしたせいで大の犬好きとのエピソードがあるから、凄まじい。貧困から抜け出すために、高校時代から強盗を働き、施設と刑務所への出入りをくり返す。その間に、リリックを書き始めてラッパーを志した。彼の最大のヒット曲、「X Gon' Give it to Ya」はセルフ・プロデュースだから、ドラムマシーンとの出会いも重要なターニング・ポイントだろう。
2 新しい家族、ラフ・ライダーズ
DMXが大々的に世に出たのは1998年、デフ・ジャム傘下のラフ・ライダーズ・レコーズからである。DMXはすでに27才になっており、ラッパーにしては遅いデビューだ。実は、彼はそれ以前、1992年にコロンビア・レコーズ傘下のラフハウスと契約していた。ヒップホップとヒップホップ・ソウル(ヒップホップ寄りのR&B)が一気にメインストリームの音楽になった90年代は、レーベルがほかに取られないようにまず契約だけして、売り方に迷って飼い殺しにしてしまうケースがあった。10代だったビヨンセとアリシア・キーズも同じ憂き目に遭っている。ラフハウスでは、DMXはラップの才能とセットでドラッグの問題を抱えている点を問題視され、デビューに至らなかった。
そこに手を差し伸べたのが、ジョアキン“ワー”ディーン、ダーリン“ディー”ディーン、シヴォン・ディーンの家族経営のラフ・ライダーズ・レコーズだ。もともと、コンサートの招へい業をやっていた音楽ビジネス一家がDMXの才能に目をつけ、完璧に仕込んでデビューを果たす。98年にリリースした『It's Dark And Hell is Hot』を皮切りに、『Flesh of My Flesh, Blood of My Blood』、『...And Then There Was X』の3作を2年以内にリリースし、DMXは一気にスターダムへ。ラフ・ライダーズはその勢いに乗って、イヴ、ザ・ロックス、そしてアジア系MCのジンらを売り出した。DMXの曲を振り返るのなら、彼のアルバムだけでなく、この時期のイヴのヒット作や、ラフ・ライダーズのコンピレーション『Ryde or Die』シリーズも、ぜひチェックしてほしい。
3 ジェイ・Z、パフ・ダディとの確執
69:アイス・キューブ、元パフ・ダディとジェイ・Z、70:DMX、71:2パックとスヌープ、72:ノトーリアス・B.I.G.(ビギー)とエミネム、73:Nas。90年代を彩ったヒップホップの大物を誕生年で並べてみた。ギリギリ、同年代でくくって差し支えないだろう。デビューが早かったNasと、24才で逝去したビギーがこの中では若いのは少し意外だったのでは? この同年代チームで、DMXのキャリアで重要なのがジェイ・Zと、パフ・ダディ。ジェイ・ZはアンダーグラウンドのMCバトル時代のライバルだ。その後、デフ・ジャムのA&Rだったアーヴ・ガティの計画で、ジャ・ルールを含めて「マーダー・インク」というユニットを組む話があり、実際に数曲が作られ、3人で雑誌の表紙も飾った。結局、DMXとジェイ・Zの確執が解消されず、ユニット自体が立ち消えになってしまう。お互い、才能を認めていたからこそ、相容れなかったのかもしれない。ジェイ・Zことホヴァはビヨンセと結婚してからのシュッとした感じがパブリック・イメージになっているが、以前はキング・オブ・ニューヨークの称号を巡ってNasに喧嘩を売るなど、尖っていたのだ。ただし、『Ryde or Die,Vol.1』からジェイ・Zはスウィス・ビーツが作った「Jigga My Nigga」をヒットさせているので、曲作りにおいてはDMX陣営と健全な関係だった。パフィは、DMXを売り出す側としてアプローチされたのだが、「手に負えないから」と断っている。その後、パフィが売り出したヨンカース出身の3人組、ザ・ロックスがバッドボーイの目印だったキラキラしたジャンプスーツを嫌がり、ラフ・ライダーズ入りしているので、こちらは「やられたら、やり返す」関係だ。
4 刑務所の裏庭からハリウッドへ
キレのいいラップ、犬の咆哮にも似た強い声など、DMXが売れた理由はたくさんある。そして、映像映えする鍛え抜かれた体躯。筋肉質の体型は「刑務所で鍛える時間があった」ことを意味する。DMXは同志愛や生き様をテーマにした曲が多く、ヒップホップにありがちな女性をモノのように扱うリリックがほとんどない。硬派なのに、女性人気は抜群。そこが「売れたらモテたぜ、そんな女は雑に扱うし」と言いがちなほかのMCをイラッとさせたのは、想像に難くない。そのカリスマ性でDMXはハリウッドに呼ばれ、俳優業でも成功を収める。とくに有名なのが、『マトリックス』のアンジェイ・バートコウィアク監督による、ヒップホップとカンフーを掛け合わせた3部作だ。
だが、14才から手を出したというクラックとコカインから離れることができず、また、売れすぎたことからラフ・ライダーズの上層部と取り分で揉めるようになる。21世紀に入り、映画の撮影と並行しながら、『The Great Depression』(2001)と、『Grand Champ』(2003)の2枚のアルバムをリリース。5枚続けてビルボードのアルバム・チャートの初登場1位を飾る偉業を成し遂げるが、ヒップホップのトラックのトレンドがどんどん変わる中、集中力を欠いたようにも見えたDMXは失速していく。
5 キリスト教とDMX
DMXのお母さんはキリスト教の宗派、エホバの証人の信者であり、DMX自身はそれで苦労したものの、本人も敬虔なクリスチャンである。初期の戦闘的なリリックの多い作品でもキリストへの愛が語られている。薬物の所持、スピード違反、養育費の未払いなどの罪状で出たり入ったりした刑務所の中で聖書への理解を深めたらしい。2009年には音楽活動を半分、リタイアして信仰への道に入ると宣言、実際に説教もしている。2019年には、カニエ・ウェストの「サンデー・サーヴィス」に登場して説教を披露し、ファンを驚かせた。あの時、カニエが見せた笑顔は、純粋なヒップホップ、いやDMXファンそのものだった。DMXは、薬物中毒のほかに双極性障害(躁鬱病)も患っていたせいで、ラッパー稼業でも俳優業でも、くり返しチャンスを与えられたものの、大きなプロジェクトを成功させるのは難しかった。彼と一緒にスターダムに上ったスウィス・ビーツは彼と連絡を取り続け、2017年には一緒に曲を作り、その甲斐もあって2019年には古巣のデフ・ジャムと再契約をしている。ファンとしては、復活劇を見たかった思いが強いが、大きなトラウマを抱えながらダークマンのまま生きていた点を考えると、早めに神様に召される運命の人だったのかもしれない。